横手市の町名・地名由来




 石町 赤坂 御免町 馬口労町 上野台  川原町 二日町・五日町・栄通町 蛇の崎橋 二の堰と君待橋
 平城 台所町 古川町 婦気大堤


   
【石 町】
八橋字石町内の畑の中に高さ2.6m、幅0.8m位の大きな石が立っている(下写真)。菅江真澄は「月の出羽路」に、
『この石があることから‘石町’の名がある』と書いている。
この石が「石町」の由来であることは、ほぼ異論がないであろう。
石町の石
石のある場所
               
ただ、いつ、どのようにして、ここに建ったかについては不明で、2、3の説がある。
先ず、“いつ”について、
小川笙太郎氏は「山と川のある町歴史散歩」のなかで『石町は、中世の頃の町として古記録に出てきます。【奥羽永
慶軍記】という軍記ものに、・・・関根町に放火すれば石町、本町、荒町の数百軒余・・・と記しており、中世、すでに石
町の名があったことがわかります』と説明している。
すなわち、室町時代の終わり頃には石町の名前はあったことになる。
次に、この石が “どのようにして” ここに建ったかについて、
@大洪水により運ばれてきた。
A古老の話として、鳥海山の噴火の際に飛んできた(横手ものしり辞典)。
B中世、平城や朝倉城にいた小野寺氏の頃、商家が“目印(商標)”として建てた(菅江真澄の推定)。
@ Aは自然現象、Bは人為的に建てたとの説。
現横手川の洪水後に、テトラポットや巨大な石が転がっていることから、@は十分あり得る。
後述するように、この石が「硬質泥岩」であることから、Aはあり得ない。
また、石がどのように利用されてきたかについて、
Bの商家の目印説の他に、横手川が石町のあたりを流れていた頃の舟の繋ぎ石(アンカー)か、あるいは灯台の役
目をしていた(伊澤慶治)という説がある。
ちなみにこの石は、小川笙太郎氏が横手高校・地学担当の先生に鑑定してもらったところ「硬質泥岩」と分かったそう
である。硬質泥岩はこの付近の山や横手川の川底に広く露出している石である。
この石は建設現場でよく問題になる岩で、長年月の間、乾湿、寒暖にさらされると、表面からパラパラと剥がれ落ちて
いく性質があり(風化作用)、雪国では凍結・融解によりさらに風化は促進される。古老の話では昔はもっと大きかった
との話もあり風化速度はかなり速いと考えられる。この石が室町時代の終わり頃からの石だとすれば、500年以上も風
雨にさらされてきたことになり、昔は、かなり、ずっと、大きかったと考える必要がある。


   
【赤 坂】
「赤坂」という地名は全国どこにでもある名前で、どの地域においても、その土地の土の色が赤色を帯びていたことか
ら名前が付いたらしい。横手市の赤坂でも赤い土が多い(下写真)。また赤坂は猪岡丘陵の上にあり、周辺より一段高
い所にあることから坂が多い。
ということで、横手市赤坂においても、赤い色をした坂があちこちにあることから「赤坂」という地名がついたと考えら
れる。この地名は明治22年の市町村制実施以降現在まで使われている。
赤い土は、一般には鉄分を多く含んだ土で、鉄分が酸化して赤く(錆び色)なったものである。
仙北市を流れる玉川が渇水の時に露出する川底の褐色地肌は上流の玉川温泉の鉄分が沈積したものである。
玉川渇水写真参照


横手南中学校の後ろの崖
国道107号沿いの崖
車道から外れた山道
   
地元「ふるさと栄会HP」によれば、「赤谷地」の説明のなかで、『・・・赤い鉄分をふくんだ土が出るので赤谷地とい
ったのではなく、鉄分をふくんだ赤褐色の渋水(?)が多く、垢水が油ずんでいるので垢谷地とするのが正しい。赤坂も
赤川も同様の語源を持つ地名である。』とあり、赤谷地、赤川、赤坂の「赤」は「垢(あか)」を意味しているとの説明が
ある。


    
【御免町】 今の上内町あたり
今の上内町あたりを御免町といった。今でも「御免町会館」として建物が使われている。
名前の由来は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣に足軽ながら立派な働きをして認められた人達が、足軽御免となって
「士分」にとりたてられて住んでいたことからきている。他に今の大町、幸町にもあったが町名変更でなくなった。日本の各
地に御免町はあり、藩への貢献が認められ、税を免除されたりした御免衆が住んでいた場所を御免町といったケース
もある。
横手では、御免町の名前は江戸時代から昭和40年まで使われ、それ以降は上内町に編入され、今は「御免町」の名
前はなくなった。
昭和27年頃の横手市街地図(下図)には「御免町」の名前が載っている。
   
   
昭和27年頃 横手市街地図
  
旧御免町の標柱

御免町会館


    
【馬口労町】 今の中央町あたり
江戸時代、馬の売買・交換を仲介する人を「馬労とか博労(ばくろう)」といった。そのような人が集まった街を「馬喰
町」と呼ぶようになった。
「ばくろうちょう」は全国どこでもある名前だが、書き方は『馬口労町』『馬苦労町』『馬喰町』といろいろあるようだ。
当て字が異なるが由来は同じと思われる。
横手では『馬口労町』が「嘉永2年(1849)の横手御城下絵図」にその名前が見られるように江戸時代から使われて
いた。明治7年に周辺3町と合併し「横手町」に編入されたが「小字」として残った。さらに昭和41年の町名変更の際に
「中央町」に編入され、この時から「馬口労町」はなくなった。秋田市では今でも使われているようだ。
『馬苦労町』は能代市でかつては使われていたようだが、今は使われていない。
『馬喰町』は大館市では今も使われている。東京日本橋でも使われている。
横手では「馬口労町」と言えば昔は「遊郭」が有名だった。明治の終わりころから歓楽街として賑わったようだ。
下図は昭和8年の馬口労町の繁華街の地図である。いろいろな店が多く並んでいる。いまでもその名残りとしてス
ナックや料亭が横手市で一番多い。
 
昭和8年 馬口労町の地図
ただし、今では廃業した店が目立ち、昔ほど賑やかな街ではなくなっている。今は写真(左下)のような「馬口労町」
の看板が残されている。
馬口労町(今は中央町)
昔を偲ぶ?お店


 
【上野台】 今の城南町あたり
「中の橋」を渡って裁判所の方に直進すると坂道があり、登りきった当たりは高台になっている。高台といっても、お城
山と愛宕山に挟まれているため周囲の山と比べると低く感じる高台で、清水沢に沿った細長い形状をしている(下
図)。このあたりを以前は上野台(こうずけだい)といったが、昭和40年の町名変更で「城南町」に変わった。したがって
「上野台」という地名は正式にはなくなった。
 
   
 上野台の位置(高台:清水沢沿いの砂礫段丘) 

いつ頃から上野台の名前が使われたかについては、「享保13年(1728)の「横手城下絵図)」に“上野台”の名が見ら
れることから少なくとも江戸時代の中期からあったことになる。
大正13年の横手町市街案内図には「上野臺町」「本田上野之介之墓」(原文のまま)の名前が見える(下図)。
 
   
 大正13年 横手町市街案内図 
 
名前の由来は、江戸時代、徳川家康の側近だった「本多上野介正純父子」が改易されてこの地に幽閉され、この地
に葬られたことによる。正純父子の墓碑は裁判所から山側に5分程歩いた場所にある。
本多正純が改易・幽閉される理由となった『宇都宮釣り天井事件』の話は有名である。
≪宇都宮釣り天井事件とは≫
家康亡き後、家康の側近だった正純と二代将軍徳川秀忠の側近達との間に権力抗争が続いていた。そんな折、秀
忠は家康の7回忌に日光東照宮を参拝したあと、正純の居城である宇都宮城に1泊することが決まり、正純はお城の
普請や造営を行った。
正純の政敵である秀忠の側近達は、正純がお城普請の際に秀忠を暗殺しようとして、寝室に‘釣り天井’を造ったと
の嫌疑を掛けて正純の失脚を狙った事件である。
釣り天井とは天井を綱でつり下げておき、切って落とすことによって下にいる人を圧死させる仕掛けのことである。
実際には宇都宮城には釣り天井など存在しないことが後になって判明しているので、正純改易は別の理由によるも
のとされている。結局、正純父子は権力抗争に敗れて、秋田・佐竹義宣にお預けとなり、横手の上野台に幽閉されて
厳重な監視下に置かれた。
本多正純父子の墓碑
正純父子終焉の地の碑


    
【川原町】 大町下丁の川沿い
大町下丁の川沿いの一部をさす町名であったが、昭和41年の新住居表示実施によって消えてしまった町名である。
さらに、昭和51年から始まった横手川の河川改修事業により、土地そのものが削られて無くなってしまった。工事に伴
う家屋移転は50軒程の戸数を数えたという。
川原町移転跡地の記念碑(下写真)文を一部抜粋すると      
川原町は、文献によると藩政時代初期と推定される横手古図に道が見られ、寛文九年(1669)の横手
絵図面に川原町の町名と家屋11戸が記されているなど、その発祥を約400年もさかのぼる歴史のあ
る町でした。
と記されている。
河川改修前
河川改修後


旧川原町移転記念碑(右上写真の赤丸の位置)


 下図は江戸時代の絵図の一部である。「川原町」の町名がみえる(下図赤丸)。
   
 嘉永2年(1849) 横手城下絵図

川原町は、江戸時代には山内方面から‘材木流し’で運ばれてくる材木を陸揚げし、仮置きしておく場所であった。横
手川が観音寺でぶつかる手前の、しかもお城の真下に位置することから、陸上げには適した場所であったと思われ
る。
材木はお城で使う木材や内町の武士家族の生活に必需品の薪であった。材木流しは1年に1回春先に行われたよう
である。川原町は単純に川原の近くに発達した町という意味か。



    
【二日町・五日町・栄通町】 今の鍛冶町、四日町あたり
江戸時代になって、城下町周辺の農民たちは城下の決まった場所(お寺の前とか)に野菜や果物、漬物などを並べ
て‘露店’を開いた。小間物屋、魚屋、飲食店なども加わり、多くの人で賑わった。
‘露店’は分かりやすいように、例えば月のうち2の付く日(2日、12日、22日)はこの場所で、5の付く日(5日、15日、
25日)はあの場所でという風に場所を変えて開催された。この‘露店’=‘市場’が盛況をきたし定着していき、やがて開
催される「日にち」が場所の地名になっていった。
二日町や五日町はこのような由来で命名されたものである。
明治になって二日町、五日町は栄通町に変更になった。‘栄通町’の由来はこの通りが鍛冶町と四日町の境にあ
り、はじめは「境通町」(さかえとおりまち)と呼ばれたが、後に「境」を「栄」に変えて「栄通町」となった(角川日本地名大
辞典)。
さらに、昭和41年の住居変更により、栄通町は鍛冶町、四日町に編入された。
したがって、二日町、五日町、栄通町という地名は横手市には無くなり、四日町だけが現在も残っている。
二日町、五日町がいつ頃から存在したかについては、
寛文九年(1669)に書かれた「横手城下町絵図略図」に大町、四日町とともに、二日町、五日町が記載されている
(下図)。従って少なくとも江戸時代初期には存在していたことになる。場所は今の鍛冶町あたりと思われる。


寛文9年 横手城下町絵図略図


昭和になってからの朝市風景
 
横手市には「七日」の付く地名もある。これは、横手市睦成七日市、横手市杉目七日市、横手市増田町増田字七日
町である。
秋田県内では、由利本荘市矢島町七日町、仙北市角館町七日町、北秋田市七日市(ナヌカイチ)がある。


    
【旧蛇の崎橋】  今の橋の上流70m
蛇の崎橋は「山と川のある町」の一つの象徴として市民に親しまれてきた橋である。蛇の崎の名前の由来にはいくつ
かあるが、代表的なものとしては次のような‘言い伝え’を菅江真澄が残している。
『後三年の役の時、源義家が敵(武衡、家衡)に攻められてこの橋を渡ろうとした時に川に落ち流されそうになった
が、護岸用の蛇籠(じゃかご)につかまって助かった。そのことから「蛇籠が崎」と呼ばれ、さらに「蛇の崎」と呼ばれるよ
うになった』という伝承である。
蛇の崎橋は古くから、横手の内町と外町を繋ぐ重要な橋の一つであった。ただ、木製の橋であり、他の橋と同様に、
洪水のたびに流された経歴を持っている。
このような経緯のなかで、蛇の崎橋は昭和6年に横手で初めてコンクリート橋に建て替えられた。
このコンクリート橋はその後70年間市民に親しまれたが、この橋も老朽化が進み、都市計画事業、河川改修事業のも
と、平成13年には、今までの橋より約70m下流に新しい蛇の崎橋が完成した。
旧橋の解体にあたり、この橋を長く人々の心にとどめ、また感謝の意を込めて旧橋の位置にモニュメントが建設され
た。(左下写真)。
旧蛇の崎橋の場所に建てられたモニュメント
平成13年に新しく建設された蛇の崎橋
 
四八豪雪時の旧蛇の崎橋の様子



    
【二の堰と君待橋】 君待橋は今の市役所かまくら館の横
横手にはかつて一の堰から四の堰まであった。二の堰は上流から数えて2つ目の堰である。堰とは「あきた地名要
覧」によれば「水の流れを塞ぐために作った構造物、東北地方では、水路、溝、どぶや農業用水路のことである」とあ
る。横手の堰も農業用水路のことである。
二の堰は、「上の橋」の上流から取水し、大町上丁をとおり、そこからほぼ西流して横手駅の北側まで直線的に延び
ている。江戸時代の絵図にも記載されているからかなり古い水路である。
平成の初め頃、都市計画事業によりこの水路の真上に横手市役所と富士見大通りが建設された。このため市役所
より西側の水路は埋設されてしまった。
二の堰には、田中町と馬口労町の境に「きみまち橋」という橋(下写真の赤丸)があったがこの橋も取り壊された。

二の堰(青線)と市役所建設位置(赤枠)(航空写真は昭和23年撮影)


昭和38年ころの地図に「君待橋」が載っている。
二の堰(川ざらい)と君待橋
再現された君待橋の一部と記念碑
 
 橋があった場所は今の「かまくら館」の横で、橋の一部が再現され、そこに記念碑が建てられ、『きみまち橋の由来
について』が刻まれている。その内容は次のとおり。

『きみまち橋の由来について』     
この橋は、昭和30年に旧農業用水路二の堰に架けられた、延長10m、幅5.4mのコンクリート製の橋で
した。当時はこの橋を渡ると両側に遊郭・飲食店が建ち並ぶ横手市唯一の歓楽街だったため、別名親
不幸橋とも言われていました。コンクリート製の橋はまだ珍しく、馬口労町にモダンな橋がかかったとい
う話題性、また、市民公募により命名されたという粋な橋名から、当時を知る人には、忘れられないドラ
マを持ったロマンチックな橋でした。この由緒ある橋が都市計画事業により消えると共に、親しみを持っ
ていた多くの市民より惜しむ声があがり、ここに当時の面影を偲び、その一部を再現したものです。
平成7年10月

≪二の堰の取水口について≫
下写真:昭和23年頃と昭和51年頃の二の堰 取水口の状況(今の清川町付近)
昔は川の水を全部二の堰に取り入れていたようだ。そのころは横手川の下流ま
で水が届かず、上、下流で水争いになったと聞く。その後、国や自治体で農業
用ため池やダムの整備を進めたため、水問題はほぼ解決した。現在は河川改修
時に河道が掘り下げられ自然取水は困難となっている。このため道路脇に設置
したポンプ小屋から、横手川の水を取水し、積雪時の流雪溝に供給している。
昭和23年頃の取水口
昭和51年頃の取水口


        
【平 城】
横手市平城町に、かつて平城(ひらじろ)があったとされ、それが現在の平城町の名称の由来とされている。
平城とは、平地に土塁と堀で囲っただけの城であり、横手城のように山の上に築かれた山城(やまじろ)とは異な
った簡単な造りである。
平城が造られた年代は鎌倉時代の初期とされ、加賀美相模遠光の築城とされている。その後、小野寺稚道の時代
に‘平城の乱’が起きた。現地の説明看板にその内容が記されている。要約すると、
戦国時代の中ごろ、当時この地方を支配していたのは小野寺稚道であったが、平城の城主横手光盛と金沢八幡宮
の金乗坊が小野寺稚道に対し謀反を起こした。この戦いを平城の乱という。この戦いに敗れた稚道は湯沢城まで敗走
し自害したが、その子小野寺輝道は山形の羽黒山に逃れた。その3年後、輝道は勢力を盛り返して平城にいた光盛ら
を討ち、父の仇を取った。輝道はその後横手城を築き居城したと云う。
‘平城’に関する古記録は非常に少なく推定の域を出ない部分が多いとされる。


平城跡地の説明板
昔の平城の推定範囲



  
【台所館】 今の台所町・新坂町あたり
横手市に「台所町」という町名がある。場所は市役所北方の大鳥公園付近の丘陵地にある。近くに大鳥井山遺跡が
あり、前九年合戦〜後三年合戦の時代、清原一族が戦いに明け暮れ、散っていった場所である。
「台所町」は以前は、‘大字 睦成 字 台所館’だったが、昭和40年の町名変更で「台所館」の一部が「台所町」となり、
「台所館」の名前はなくなった。
「台所館」の由来は、上記合戦のあった平安時代後期に、豪族清原一族が大鳥山に城(柵)を築き居城していた頃、
お城の近くに食糧を扱う「台所館」を造ったことからその地名が残った、との伝承がある。
台所館遺跡と大鳥井・小吉山遺跡の2つの遺跡群は、旧羽州街道を挟んで二つの台地上にあり、これらの遺跡から、旧石器
や縄文土器、さらには中世の堀、館跡などが確認されている。
この地に旧石器時代〜戦国時代〜現代まで人が住み続けた要因は‘川に囲まれた台地’(下方航空写真)という自然
環境・生活環境にあったからかもしれない。
横手城天守閣から見る大鳥井山(左矢印)、台所町(右矢印)


台所館の説明板(下右写真の赤丸)

≪二つの台地の成り立ち≫
先に「小吉山・大鳥井山」と「台所館」の二つの台地があり・・・と書いた。他の文献にも「二つの台地は昔は続いてい
たのであろう」と結んでいるものが多い。台所館の歴史にとって台地は重要な意味を持っている。では、これらの台地
はどのようにして出来たのだろう。
左下図は国交省の「都市圏活断層図」である。右下図は昔のモノクロ航空写真である(この方が地形の起伏が分か
りやすい)。左下図のように、この地域では多くの活断層が存在する(断層線のハッチは断層の傾斜方向を示す)。
一連の断層活動により、子吉・大鳥井山の西側が沈降し、また台所館の東側も沈降した。さらに、二つの断層の間の
2本の断層は互いに内側に落ち込んでいる。
右の航空写真と比較すると、小吉山・大鳥井山の西側の崖地形、台所館の東側の崖地形、その間の凹地形(沼を
形成)等、現在の崖地形と活断層位置が完全に一致している。このことから現在の地形は活断層により形成されたこ
とが分かる。(むしろ、航空写真の地形解析をもとに活断層を推定しているのだが。)
すなわち、最初は連続した丘陵地だったが、二つの活断層により落ち込み、凹地が形成され、独立した二つ
の台地が形成されたものである。
都市圏活断層図
大鳥井・小吉山、台所館付近の航空写真


    
【古川町】 今の幸町北部(新坂町寄り)
今の幸町の北側(新坂町寄り)の羽州街道沿いに「古川町」という町名があった(左下図の赤丸)。大正13年の「横手町案
内図」にその名前が見える(右下図)。
‘古川町’は江戸時代には出羽国平鹿郡に属し、明治時代には平鹿郡横手町に、昭和21年からは横手市に所在しながら昭和40
年まで名前が引き継がれてきた。昭和40年の住居表示実施により幸町の一部となり、古川町の名前はなくなった。すな
わち、江戸時代から昭和40年まで「古川町」は存在していた。
名前の由来は、江戸初期、横手川の河川改修が行われ、旧河道(古い川) を埋め立てて造成された町であることによるとされる。

古川町の位置
大正13年の絵図
   
(1)古川町が昔は川だったという資料
左図は、国交省の「地形分類図」で、航空写真の判読、地形解析等から専
門家が作成した資料である(原図は分かりにくいので一部加筆した)。
図の青太線が現横手川の河道、青点線で囲った部分が「地形分類図」で
「旧河道」と記載されている部分である。
古川町(赤丸の位置)はちょうど旧河道の上にのっていることから、名前
から判断すれば昔は川だったと推定される。
すなわち、いつの時代にか(何万年前の第四紀更新世〜現代の間)、古川
町を流れていた旧河道が、現在の位置まで移動したことになる。
江戸時代に河川改修が行われた可能性が指摘されている。
   
(2)江戸初期に河川改修が行われたという根拠
@左図は江戸時代初期の正保年間(1644〜1648)の蛇の崎以北の絵図
である。図中の青丸は「古川」と記された箇所で、青点線はそれ以南の住家
のない細長い空白部を結んだ線である。赤丸は「新川」と記された箇所
で現在の横手川の位置にあたり、『古川』と『新川』の文字がみえる。
A @から20数年後の寛永9年(1669)の絵図(省略)には、青点線の周辺
に住家が建ち始めている。
Bさらに約60年後の享保13年(1728)の絵図(省略)には、「古川」に
代わって「谷地」の文字が見え、年代の経過とともに徐々に水はけが進
んでいることを示している。
これらのことから、横手川は江戸初期に、河川改修工事によって、青点
線の位置から現在の位置(赤丸)に付け替えられたと推定できる。
そして、当時の“古川”がそのまま『古川町』になったと考えられる。
Bの享保13年の絵図では既に武家屋敷、足軽屋敷の街並みが古川町まで
整然と整備されている。この町割りは300年以上たった現在と殆ど変って
いないのには驚く。
『横手の歴史:横手市(普及版)』の年表の欄には「1603年(慶長8年)
須田盛秀 横手川開削に着手」と記載されており断定的に表現されている。



    
【婦気大堤】
婦気大堤はグーグル地図によれば左下図の赤枠の範囲にあり、飛び地となっている。上の赤枠が婦気地区であり、下が大堤
地区である。『婦気』交差点は国道13号と国道107号の交点であるが、面白いことに婦気交差点のある場所は赤枠から外
れ、婦気地内に入っていない。

婦気大堤の位置
婦気交差点
婦気大堤の地名由来は『雪の出羽路』によると、‘婦気’(フケ)は「湿地」の意味で、近くに田窪沼があることから、また‘大
堤’は大沼があることからそれぞれ命名されたとのことである。
歴史的には、元禄三年の証文に「横手分婦気・大堤・安田三村」と村名が記されている(吉沢家文書)ように、婦気村、大
堤村の名前は江戸時代からあった。2つの村はその後合併されたのであろう。明治22年以降は平鹿郡‘婦気大堤村’→‘栄村大
字婦気大堤’→‘横手市婦気大堤’と変遷している。
ただ、現在の婦気地区と田久保沼がかなり離れていることが気になるのだが。これは、江戸時代に命名された‘婦気’は、上記
のような離合集散により、当初の命名場所とは異なった場所に移ってしまったということだろうか。
下写真は現在の田久保沼(田窪沼)と大沼の写真である。田久保沼に対して大沼は殆ど整備されていない。
田久保沼(田窪沼)
大沼


下図は婦気大堤付近の地形図である。図に示すように、婦気大堤地区は周囲を奥羽山脈と猪岡丘陵の山地に囲まれた”低地
帯”となっている。低地帯内では岩盤があちこちに顔を出し地表面は凸凹である。
横手盆地の形成過程において、雄物川が下図の矢印の方向に氾濫を繰り返し砂礫を堆積したのに対し、"低地帯"内では、
猪岡丘陵の陰に隠れて、雄物川の氾濫の影響を受けることなく静かに粘性土が堆積した。
粘性土は湿地帯を形成し、かんがい用水が得られないため、江戸時代以降の新田開発の際に、沢の出口や凹地を利用して
ため池(堤)が多く造られた。
これらの湿地帯やため池が婦気や大堤の名前の起源となったと推察される。

奥羽山脈と猪岡丘陵に挟まれた婦気大堤地区
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